”これは知ってる!”から、”しっ、知らなかった・・・”まで  
  
分かっているつもりでも意外に知らなかった事、知ってて得する神戸の豆知識などを紹介します。
これであなたも‘神戸博士’?!
 

北野異人館街
 1868年1月1日(慶応3年12月7日)、兵庫が開港されたのち、外国人は現在の市役所の西側一帯、旧居留地で仕事をしたり、住んだりしていました。ところが来日する外国人の数が多く、住宅不足の問題が起こってきました。そこで居留地に住めない外国人は、新たな住環境を山の手に求めるようになり、さらに居留地内に住んでいた外国人たちも、商売が安定していたことから、仕事場と住居を分けることを考えはじめました。こうした人達が次第に山の手へ移り住むようになりました。これが異人館街のはじまりです。この界隈に異人館が立ち並ぶようになったのは、明治20年のころです。外国人建築家のもと、日本人の大工が腕をふるった力作で、洋風住宅と和風住宅のミックスした建物が特長です。北野の異人館が一躍注目されるようになったのは、昭和52年から始まったNHKの朝の連続テレビ小説「風見鶏」の舞台になってからで、それ以降神戸を代表する観光地となり、多くの観光客が訪れるようになりました。この界隈の主要部分は、国や市によって―伝統的建築物群保存地区−に指定されていて、行政と地元住民が一体となってこの街並みを保存しようと努力が払われています。現在公開されている約20数棟の異人館のうち、風見鶏の館・萌黄の館の2館が国指定重要文化財に指定されています。風見鶏の館は、この地区の唯一のレンガ造りで、明治42年に建てられました。とんがり屋根のてっぺんの風見鶏は雄鶏で、雄鶏は警戒心が強いので魔よけになると信じられていました。萌黄の館は明治36年に建てられたもので、「白い異人館」として親しまれていましたが、改修工事の時に当時の色にもどされ、現在のようなうす緑の萌黄色になりました。

北野工房のまち
 「北野工房のまち」は、北野小学校と諏訪山小学校が統合され、こうべ小学校となったことで校舎としては使われなくなった北野小学校を利用して、1998(平成10)年にオープンしました。外観だけでなく、階段や柱など内装も校舎の面影をそのまま残しているので、中に入ると子供たちが廊下を走り回っているような風景が想像でき、自分の小学校時代を思い出させてくれるような、懐かしい気持ちにさせてくれます。約20数店ある店舗は、教室を工房として使用し、この場所にしかない商品を作って販売しています。またグランドは観光バスの駐車場として利用されています。シティー・ループバスの停留所もあり、新しい観光の拠点となっています。

ビーナス・ブリッジ
 諏訪山公園にある展望台は、1874(明治7)年にフランスの観測隊が、金星(ビーナス)の観測を行ったことから、金星台と呼ばれています。そのすぐ北側にある再度ドライブウェイの展望台がビーナス・ブリッジです。8の字型のスロープになっているこの橋からは、市街地の近くに居ながら、天気のよい日中は、和歌山や関西空港まで見渡すことができます。夜景スポットのひとつにもなっています。

相楽園
 相楽園は、1947(昭和22)年に選挙で選ばれた最初の神戸市長、小寺謙吉の屋敷でした。1941(昭和16)年、この屋敷が神戸市にゆずられ、「相楽園」として、市民に有料で開放されました。戦争で主な建物は焼けてしまいましたが、厩舎(うまや)は作られた当時のまま残っています。明治の有名な建築家が設計したもので、ドイツの民家風に作られています。他にも、北野町にあったインド貿易商ハッサム氏の家「旧ハッサム住宅」や、江戸時代に姫路の殿様が使っていた「船屋形」と呼ばれる船も、この相楽園の中に移されています。「旧ハッサム住宅」は普段は公開されていませんが、春と秋に一般公開されます。この3つの建造物は国の重要文化財に指定されています。庭園のつつじや、秋の菊花展も有名です。 兵庫県庁のすぐ近くという便利なところにあるので、神戸に来られた外国人にも、おすすめできる日本庭園です。

関帝廟
 関帝廟は、関帝(「三国志演義」で蜀の劉備を助け活躍する武将関羽のこと)をまつっています。神戸では、ここだけが中国式の雰囲気を残している建物で神戸に住んでいる華僑の方々の信仰を集めているお寺です。もとは、1892(明治25)年に「移情閣」を建てた人としても有名な呉錦堂が大阪にあった長楽寺という古い寺を移して中国人の寺にしたのが始めでした。戦争で焼けてしまった長楽寺のあとに、1947(昭和22)年に何人かの中国人によって関帝廟がつくられました。毎年旧暦の盂蘭盆 (うらぼん)に行われる「水陸普度勝会(すいりくふどしょうえ)」の時に、紙でできた家「冥宅(みんたく)」が飾られます。その家の模型の中にも、紙でできた車や豪華な応接セットや家具を置いて、祖先に感謝し、また浄土でもこのような生活を送ってほしい、と願う大きな行事です。「冥宅」は、このために中国福建省から来た専門の職人が竹の骨組みに色紙細工を張り合わせてつくります。この行事の間は、太鼓やカネなどが鳴らされる間にお経が読まれにぎやかですが、盂蘭盆が終わったあとは、日付が変わる前に「送り火」を行わなければ祖先の魂が浄土に戻れないと伝えられていることから、これらの「冥宅」は、すべて関帝廟の前でつぎつぎに燃やされます。

小泉八雲の旧居跡
 県中央労働センター(中央区下山手通6丁目)の敷地内に旧居跡の碑があります。八雲(ラフカディオ・ハーン)は、1894年に神戸に来て以来、約1年9ヵ月ここに住んでいました。碑は、1994年に建てられました。

兵庫県公館
 兵庫県公館は、1902(明治35)年に4代目の兵庫県本庁舎として建てられました。 近世フランス式ルネサンス様式を取り入れています。1985(昭和60)年に内装して、現在の姿となりました。ここは迎賓館と、県の今日までの歩みや仕事のしくみなどを紹介する県政資料館と2つの役割があります。また迎賓館では、一般の方にも親しんでいただくために、「サロンコンサート」や「ひょうごまちなみガーデンショー」などのイベントが年に数回開かれています。また、県公館の前のプロムナードは「鈴懸の径(すずかけのみち)」と名づけられていて、毎年秋には、アマチュアの方々から募集した作品を公館の前の道沿いに展示する「鈴懸の径絵画展」があり、ニュースなどでも、歳時記的な話題としてよく取り上げられています。

生田神社

 生田神社は、三宮の中でもとりわけにぎやかな繁華街にありますが、10世紀ころから、すでにあったとされている歴史のある古い神社です。この神社は、もともと現在のJR新神戸駅の北側、「砂山(いさごやま)」にありましたが、ある日洪水が起こり、その時に松の木と一緒に押し流されてしまって今の場所に移されました。その時以来、この神社では、“松は頼りにならない”ということになっていて、境内には松の木が一本もありません。お正月には「門松」を立てず、「杉盛」を立てることがならわしとなっています。 神戸市の名前の由来はこの神社と関わりがあります。生田神社に税を納める民家のことを「カンベ」と呼んでおり、これが「神戸(コウベ)」市の名前の由来となっています。


花時計
 花時計はフラワーロードに面した所にあります。1957(昭和32)年、現在の場所に神戸市役所の建物ができた時に完成した日本で最初の花時計です。スイスのジュネーブにある公園の花時計をモデルにして造られていて、文字盤の大きさは6m、高さは約2mあります。花の植え替えはだいたい1年に8回くらいで、イベントや行事などをテーマにした図柄が季節の花で彩られます。また花時計は2002(平成14)年から、太陽光発電で発生した電気を利用しています。市役所2号館の屋上に並べられた縦約64cm、横約128cmのパネル30枚で、発生した電気を花時計と市役所で使っています。電気の量は、花時計の近くに置かれた電光掲示板に示されています。

南京町
 神戸に初めて中国人が来たのは、1868(明治元)年のことです。ところが、日本と条約を結んでいなかった当時の中国「清」の人々は居留地に住むことができなかったので、その近くに住み始めました。これが南京町のはじまりで、昭和の初め頃は世界各地の珍しいものがそろい、全国からの買い物客でにぎわっていました。戦争によって一時はあれてしまいましたが、人々の努力により今では50軒以上の店がならび、横浜・長崎とならんで日本の三大中華街の一つとして有名です。毎年、旧暦の正月に行われる「春節祭」や秋の「中秋節」では、龍舞や獅子舞などが披露され、南京町は身動きできないほどの人であふれます。阪神・淡路大震災のときには、周辺と比べ、被害の軽かった南京町のお店はいち早く再開し、神戸のまちを元気づけてくれました。

ポートタワー
 メリケンパークの中突堤にあるポートタワーは、神戸開港90周年を記念して1963(昭和38)年に建てられました。高さは108mです。あの赤い鼓型のタワーは、昼夜を問わず神戸の代表的な風景のひとつです。旅先から帰ってきたときに、ポートタワーを見ると神戸に帰ってきたと実感します。

海軍操練所記念の碑
 海軍操練所記念の碑は中央区京町筋の南詰にあります。その記念碑(約10トンの錨)は、工事のため1991年から土地を所有していた会社の倉庫で保管されていましたが、2001年11月に元の場所に戻されました。勝海舟の提唱で創設された海軍操練所は、現在の中央区新港町に1864(元治元)年に完成しました。 勝海舟がここに操練所を建設しようとしたのは、二ツ茶屋村(現在の元町付近)の網屋吉兵衛が築いた船たで場(これは今のドックのようなもの)の設備があったからです。操練所はわずか1年で閉鎖されましたが、その間に坂本竜馬、陸奥宗光など、来るべき新しい時代を担う人々を育て、日本の海軍史に大きな足跡を残しました。幕末の歴史に興味のある人から、よく質問されることのひとつです。

国道174号    
 税関前の交差点から神戸税関までの道路が日本一短い国道174号です。長さは187m。もとは1952(昭和27)年に国道になった時、JR三ノ宮の南側の交差点から、税関までの940mでした。ところがその後、国道2号のルート変更に伴い、取り残された約1/5の187mが、今の国道174号の長さになりました。

旧居留地(きゅうきょりゅうち)
 旧外国人居留地は、神戸市役所の西側から元町の鯉川筋までの区域で、1858年に設けられました。居留地というのは、日本と条約を結んだ国の人に対して、住んだり、仕事をしたりすることを認めた区域のことです。1868年1月1日(慶応3年12月7日)に兵庫港が開港して以来、序々にできはじめ、街として全体ができあがったのは、1873(明治6)年のことでした。東西5本、南北8本の道路によってきちんと整備された126区画の敷地に遊歩道、公園、街灯などが造られました。また、洋服・牛肉・ゴルフ・登山などの文化やスポーツなどがそのまま持ち込まれ、外国人だけで全てが行われました。初代兵庫県知事だった伊藤博文の名前をとった「伊藤町」や、日本各地の地名からとった「江戸町」・「京町」・「浪速町」・「播磨町」・「明石町」などの町名が残っています。また区画も当時の名残があり、通常日本の町と町の境界は道路が境となっていますが、ここ居留地では、大きな通りを中心に対面するところが同じ町名となっていて、ここにも欧米のストリートの感覚が入っているといえます。この地域は、昔の外観をそのままに、ブランドのブティックや喫茶店として建物が使われていて、おしゃれな神戸のイメージを発信しています。当時の建物が唯一残っている「十五番館」(レストラン)は、阪神・淡路大震災で全壊しましたが、免震設計で復元されています。また1995(平成7)年に、震災後の鎮魂と復興を目的として始まった光の祭典「神戸ルミナリエ」の主な会場にもなっています。

錨山・市章山
 神戸は海と山に囲まれた街なので、よく北を山側、南を海側という言い方をします。地元神戸っこは当たり前のように使いますが、実はこの言い方は神戸独特の表現で、他所から来られた観光客には、通じにくいこともあります。そして、この辺りでなじみのふかい山といえば錨山と市章山です。 錨山の高さは271m。1903(明治36)年に神戸港で明治天皇が観艦式をごらんになられる際、神戸市内の小学生数百人が、諏訪山の北東の斜面に錨の形に並んで旗を振ってお迎えしました。 それに因んで、1907(明治40)年にその錨型に並んだ跡に松を植えて「錨山」と名付けられました。 夕暮れをむかえ街に灯りがともるころから、錨のマークが浮かび上がり、代表的な夜景ショットのひとつとなっています。1981(昭和56)年から、風力発電によって、日没から夜11時まで電飾されています。この電飾を2002(平成14)年から、阪神・淡路大震災のあった1月17日など、市民にとって大切な日や祝日には、青色に変えるようになりました。遠くからでもはっきりと見えるように、80ワットの青色の電球が184個使われています。市章山は錨山の北隣に位置していて、1907(明治40)年に神戸に港をつくる工事の着工を記念して、市章の形に松が植えられました。市章は、こうべの旧かなづかいの「カウベ」の「カ」と港の形にちなんでいます。1933(昭和8)年「第1回みなと祭り」が行われたのを記念して、仮の電飾が行われていましたが、1967(昭和42)年からは、「神戸開港100周年記念」として、日没から夜11時まで電飾されています。

史跡「雪見御所(ゆきみのごしょ)旧跡碑」の移設について
 平清盛の福原京における邸宅であったと推測される「雪見御所旧跡碑」は今まで市立湊山小学校の校庭に設置されていたため、一般市民や観光客が簡単には見学できませんでした。2005(平成17)年に同学校周辺の山麓線側に移設され、来訪者が気軽に見ることができるようになりました。
 
これらは、当案内所で販売している有料刊行物を参考にしています。